だいぶ前に「デザインの敗北」というテーマが話題になりました。某コンビニチェーンのコーヒーマシンに多くの補助テキストが貼られていた件など、さまざまなサンプルがあげられて、デザインの敗北が語られていました。
それらの話を横目で眺めながら、「デザイン、特に情報を伝えるためのデザインは、文化の共有があって初めて、力を発揮するのではないか?」「あるデザインを本気で浸透させようと思うなら、子供を育てるように、長期計画を立ててじっくりと育てて行くことが必要ではないか?」と、つらつらと考えていました。その根拠の一つが、以下のエピソードです。
文字ありの非常口サインから
マークだけのサインへ
学生時代に少しだけ師事した太田幸男先生は、非常口のマークをデザインされた方でした。
当時、1990年代前半の非常口表示は、必ず「非常口/EXIT」という文字とともにマークがあり、かなり大きめの横長サインボードがほとんどでした。有機ELパネルもまだ実用化されていなかったので、中に蛍光灯の入ったかなり大きめのボックスのものがほとんどでした。
でもその頃、太田先生は、『将来的にこのサインがみんなに「非常口のマークだ」と認識されるようになったら、文字は外す予定なんですよ。』と言っておられたんですね。
それから20年以上経った今、新しく設置されるサインが文字なしマークだけになっているものも、だいぶ増えてきました。有機ELパネルの普及のおかげで、ごく薄くコンパクトなサインがほとんどです。
20年以上かけてあのマークが「非常口である」ことが浸透した結果、マークだけでも伝わるようになったのだなぁ、と、コンパクトな非常口サインを見るたびに感慨深くなります。
どんなに良くできたデザインでも、
公共性を求めるならば、
浸透させるための長期計画が必要?
よく考えてみると、世の中の色々なことで、これと似たようなことがあるのではないでしょうか。
例えば神社の鳥居を、日本文化を全く知らない人が見たら、ただのオブジェに見えるでしょう。でも日本文化について知っている人なら、あれは神社という領域への入り口であることは周知の事実となります。
日本の家では玄関で靴を脱ぐ、というのも、知らなければできないでしょう。外国の方のみならず、小さな子供でも、親が毎日根気よく教えるから、玄関で靴を脱いだり、おしっこ、ウンチはトイレに行って便器の中にする、ということがだんだんできるようになるのです(数々の失敗と親のため息を乗り越えて…)。
このように考えると、たとえそれがどんなに良くできたデザインであっても、広くみんなが使えるようになるためには、長期計画をもって、初めは、きめ細やかなサポートを加えてあげる必要があるのではないでしょうか。
(もちろん、そのデザインのターゲットがだれか、によっても違うのでしょうけれど)